13年前「家族6人で幸せだったあの日に戻りたい」と叶わぬ夢を描いた父親を思う

「あの日」から13年が経ちました。
あの日のあの時間、僕は商業ビルの5階にいました。大きく長い揺れが続き、その場で座り込んだことを覚えています。
すぐに家に戻りテレビを付けました。目に飛び込んでくる風景が別世界のように感じ、現実が受け入れられませんでした。

その夏に、夢新聞の依頼を受け、僕は岩手県大槌町に行きました。夢新聞の兄貴分の存在である「夢ケーキ」の主宰者、清水慎一さんに誘われて同行したのです。

街に入った瞬間に、テレビで何度も見た瓦礫の山の風景が目に飛び込んできて、車から降りるのが怖くなりました。

夢新聞教室は仮設小学校で行われ、およそ100人ほどが参加してくれました。中には親子で参加した方もいました。


小学5年生の息子さんと参加したCさんというお父さんがいました。塞ぎ込んでいる様子から、Cさんの身に起きたことを推し量り、僕は戸惑いました。

Cさんは、たった一文だけ夢をしたためました。

僕はそれを読み、心が張り裂けそうになりました。

「3月11日以前の、家族6人で幸せだったあの日に戻りたい。次男◯◯を、この手でもう一度抱っこしてあげたい」

「抱っこしたい」ではなく「抱っこしてあげたい」という心境になるんですね。

大槌町から戻った時に、小学4年生と6年生の2人の子どもがいつもと同じように「ただいまー」と玄関で迎えてくれました。
僕にとって当たり前の毎日は、Cさんにとっては、決して叶うことがないことは分かっているけど、もし奇跡が起きるならもう一度体験したい、そんなかけがえのない毎日なのだと気づいたのです。

東北地方では5回ほど夢新聞を行いましたが、子どもたちが描く夢には、他の地域ではない特徴がありました。

「教員になる」「自衛官になる」「警察官になる」「消防士になる」という夢が多いのです。
被災地で救助活動を行う自衛官や警察官、消防士は分かるのですが、教員への憧れが強い理由が分からず、ある教員に聞いたところ、次のように教えてくれました。

「あの時間、みんな学校にいて、みんなで高台に避難をして、自分たちの街が津波に飲み込まれる様子を見ました。3日間ほど高台で過ごしました。そこでは教育指導要領など役に立ちません。教員はみんな、具体的なことは何もできないけれど、自分が教員を志した原点に立ち返って、子どもたちに真正面から関わっていたのです」

「想い」だけで、憧れを持たれるほど心を惹きつけることができるのだと思ったのです。

「そんな風に思われるなんて羨ましい」…そう思った瞬間、同時に、「不人気業種だから、衰退産業だからなんていう言い訳はもうやめよう」と自分を戒めました。

最後に、Cさんと一緒に参加したお子さんが描いた夢ケーキを紹介します。

小さな子どもから老人まで6人の人がいて、楽しそうにしている様子が描かれています。

もうお分かりですよね?
お父さんが叶えられない夢を、息子さんが引き継いだのです。
老人になったお父さんは、6人の中でも一番幸せそうな笑みを浮かべています。

あの日から13年が経ち、改めて犠牲者を追悼するとともに、彼らが教えてくれたことを胸に抱き、真に豊かな社会を築くことを誓い今日のブログを書きました。