チームワークは滅私奉公ではなく「活私奉公」で成り立つ
チームワークを強要すると没個性を生みます。
組織は集団主義(村社会)になり、活力を失います。
かと言って、個々が自分の我を通していたらチームの活力が失われる可能性があります。
チームワークとは口で言うほど簡単なものではないと痛感します。
日本は伝統的に村社会の文化が色濃いので、組織の秩序を守ることを最優先します。
「滅私奉公」が好きです。
長年に渡り、道徳の教材で使われてきた「星野くんの二塁打」が2024年度から削除されるそうです。
【星野くんの二塁打】
とある野球の大会への出場が決定する予選の最終試合でのこと。同点の最終回裏の攻撃、ノーアウトランナー1塁の場面でバッターは星野君に回ってきた。監督からはバントを命じられたが、 絶好球が来たのでバントの指示に背いて二塁打を放った。そして、星野君のチームは次の打者が犠牲フライを打ったためこの試合に勝利することができた。 しかし、翌日に監督はバントの指示に背いた星野君に「共同の精神や犠牲の精神の分からない人間は社会の役立つことはできない」と話し、大会への出場停止処分を下した。
道徳の教科書では、この物語から「ルールを守るのは何のためか」を問いかけ子どもたちに考えさせています。
滅私奉公の文化が強い日本ならではの教材だと思います。
そもそも、監督の独断で全てが決まる組織のあり方が一番、問題だと僕は考えてしまいます。
この環境で育つと、監督に気に入られるような行動を取る人が育つでしょう。
真のチームワークは「活私奉公」です。
自分を活かし全体に尽くすというチームワークです。
道徳の教科書では、「ルールを守るのは何のためか」という問い…ルールありきで始まっていますが、ルールづくりにメンバーが参画することを問うことが大切だと思います。
メンバーが参画してルールを決めると、最初は個々の考え方がぶつかり混乱しますが、根気よく対話を重ねることで「判断の感性」が養われていきます。
「ウチのチームは、こういう場面ではこう判断する」という風に。
すると、ルールに従うのではなく、その時、その状況で自らが判断できるようになります。
その場にいる人間にしか分からない最適な判断ができますし、個々が持つ特有の能力(個性)が活きる可能性が高いと思います。
これが活私奉公を実現する土壌だと考えるのです。
2024年から「星野くんの二塁打」が削除されるのは、時代の変化を象徴していると思います。
集団主義の限界です。
あなたはどう考えますでしょうか?
それでは今日も素敵な1日をお過ごしください。