科学の奴隷になるか、活用者になるか、それが問題
エビデンスという言葉が使われるようになったのは、いつからでしょうか?
多分、10年前は、一般の人は使っていなかったと思います。
昭和生まれのあなた「海老でやんす」というオヤジギャグで場を凍らせた経験があるのではないでしょうか?笑
エビデンスがないと納得できない、行動できないようでは、経営はできません。
科学は万能ではないからです。
分からない領域だらけなのに、「これは科学的である」なんて言われると、妙に説得力があるから困ったもんです。
物事の評価軸が、「科学的であるか?」ということに偏ることもあります。
これが行き過ぎると、科学の奴隷になります。
科学は、事象を分解、分類します。
例えば、米澤晋也という存在を、精神と肉体に分けて研究します。肉体は、さらに、消化器官、呼吸器官、循環器官などに細分化します。
すると、細かく分解した部分は理解できますが、米澤晋也という存在の理解からは遠ざかります。
科学は、西洋で発達し基礎が作られました。事象を支配下に置き、制御しようとします。
「これをインプットしたら、このアウトプットがある」という分かりやすい因果を求めます。
細分化された部分では、その因果は成り立ちますが、「全体」はそういかないことが多くあります。
誰かが、米澤晋也を制御しようとインプットを行っても、期待するようなアウトプットが起きるとは限りません。
「米澤は馬鹿だ」という程度のインプットであれば、僕から、「馬鹿はお前の方だ!」というアウトプットを引き出せますが、高度なことは予測もコントロールもできません。
経営などの、人や社会の営みに関しては、分解して「見る」前に、全体を「観る」という捉え方が大切だと思います。
全体を「見る」ではありません。
僕は、企業に行くと、まずは思考を止めて「観る」ようにしています。
人に会った時に、その人から放たれる「光」のようなものを、肌で捉えるようにしています。
その上で、数字などの「見える」事象を確認します。この時に、科学の知見はとても役に立ちます。
その後、「見たもの」と「観たもの」の関係を結びます。
このやり方の方が、本質を捉えることができるのです。
この感性は、物事を分解し、ロジカルに思考する癖を止めないと身に付かないと思います。
有効な訓練の1つに、「自然に身を置く」という方法があります。
僕は、定期的に、「よる森」というイベントに参加します。
森に、たった1人で過ごすという、シンプルなものです。
やれば分かりますが、思考が肥大化している時に森の中に入ると、明らかに自分が異物であることが分かります。
スマホの電源を切って、1時間も森に身を置き、五感を開くと、自分と環境との間の境界線が薄れていくのを感じます。
すると、動物との遭遇確率が高まるそうです。
僕は、まだ、その域には達していませんがね。
こうした感性は。「どうすれば身につくか?」と考えると遠ざかります。
言語を使わない、体感覚を通じ、身に付いていくものだと思います。
リーダには、組織を1つの生命体のように捉え「観る」感性が求められます。
科学に縛られず、活用する力ね。
あと、オヤジギャグのセンスもか 笑
というわけで、今日の記事を読み終わったら、周りを観てみて下さい。
これまでと違った発見があるかもしれませんよ。